ポケットには47円

心の中を書きます。

紫煙

道端に落ちた吸殻を見るたび、なにを思いながら吸ったのか、と思う。

きっとそれぞれに様々な思いを持ちながら吸ったんだろうが、どうしてもそれが良いもののようには思えなくて、強い情念を感じずにはいられない。

そして単なるゴミでしかないはずの吸殻たちが、まるで人の死骸とでも言おうか、そういう類いの重々しくて、おどろおどろしい何かに見えるのである。

特に夜道で出くわす彼らは、一際強い情念の持ち主で、死してなお、通りすがる私に自らの持つ(持たされた、と言うべきか)情念を訴えかける。

それを受け止めるわけにはいかない私は、ごめんなさいと自分の無礼を謝りつつ、足早にその場を立ち去る。

こうして吸殻は二度死ぬ。

女を殴る男

夜な夜な街に繰り出しては女たちを捕まえて、関係を持ってる男がいるんだけど、彼は女たちを殴る。

男たちの前ではちょっとシニカルでユーモラスな男なんだけど、女といるとなると話は別。もはや嫌悪なんて言葉は無意味、そんな感情は軽く突き抜けるほどの悪漢っぷりで、それはそれは女を殴る。気に入らなければ、すぐに殴る。あんまり殴るもんだから、「お前は何故そんなにも女を殴るのか」って聞いたことがあったんだけど、「嫌いだから」って。嫌いなら近づかなきゃいいだろうって話なんだけど、「いくら嫌いだって、セックスはしたい」と。

彼にとって夜な夜な街にいるような女たちは女でなくて、ファックマシーンなんだそうだ。ところがコトが済めば、それはやっぱり女で、彼の怒りはたちまち膨らんでいく。そりゃそうだ、彼は女が嫌いなんだから。酒が入れば男を求めるだけのファックマシーンでも、酔いが覚めれば当然一人の女だ。死ぬまでファックマシーンとしてラリってりゃいいのに、コトが終われば自分の魅力に自信を持った振る舞い。どうしても彼には許せない。彼は力いっぱい女を殴る。

彼は最低な男なんだと思う。けれども、自分自身が最低な人間だと自覚しているだけ、まだマシなのかもしれない。世の中には自分自身がどうしようもなく最低でも、そうだと自覚していない人たちの方が多い。

達観という名の諦め

「人生に意味なんかないよ」

これは僕がよく使う言葉です。

はいはい、そこ騒がしい。言われなくたって、自分でも「お前、大丈夫か」と思うわけです。けれども、大丈夫なのか、大丈夫じゃないのかなんて、簡単には解らないのだよ、ワトソン君。

そもそも人生、次の瞬間には死が訪れるかもしれない。これは生きている以上、絶対に疑う余地のないことのはずなんだけど、誰もがそんな死のことは考えずに暢気にのらりくらりと暮らしているわけです。ああ、メシがうまいなとか、ダーリン愛してるだとか、部屋が汚いだとか、眠いだとか、頭のなかはそんな感じでしょ。

まぁ確かに一瞬一瞬、死ぬのこえーよとか言いながらおびえているのはおかしい。ただ実際におびえているが故に意識せざるをえなくて、それ以外のことに無意味さを感じてしまう僕は「人生に意味なんかない」と言うのです。自分で書いてても「お前、大丈夫か」と思いますが、死ぬかもしれないのに暢気にバカなこと考えてるのも、それはそれで「お前、大丈夫か」なわけですよ。数としちゃあ断然後者の方が多いわけで、彼らはいわゆる多数派というやつなんでしょうけれども、いくら僕が少数派だからと言って、彼らに批判される筋合いはない。そういうことばっかり言ってると、こいつ人生捨ててるとか思われちゃうんですけど(言いたいことは解るが)、自分と違うからこいつは駄目みたいなのは、ちがうんじゃないかなって。

極端な話だけど、昔は地球が球体だと信じている人はほとんどいなかった。けれども、実際は球体だったわけで、人生も何が真理なのかはわからないわけです。かつて宇宙飛行士が宇宙から地球を俯瞰して見たように、人生を俯瞰して見ることの出来る宇宙飛行士がいれば問題は解決するのかもしれないけど、問題はそんなに単純ではない。それぞれの人生は、それぞれに異なる惑星だからです(ドヤ)。

天才コナン君に言わせれば、真実はいつもひとつなんでしょうけど、彼は見た目だけじゃなくて頭脳もまだまだ子どもですよ、なぜなら人生はそんなに単純ではない。白とも黒とも言えないようなことだらけです。はぁ、まったく困ったもんですね。とすると、あれ?人生は意味がないかもしれないし、意味があるk.....

 

今日は本当にいい一日だったったなぁ!(ごまかし)

 

ざっと数分で書いて1000字くらいです。レポートはあんなに苦しんでいたのに、くだらない文章ではすらすらいけるもんですね。当たり前か。

あーあ、日常のやり取りがぜーんぶ手紙になったら粋なのになぁ。

 

 

おやすみなさい。

お星さま

「ママ、僕ね、おばあちゃんが死んじゃったあとも、おばあちゃんのことが大好きなんだ。これっておかしなことかな?」

「ちっともおかしくなんてない。とっても素敵なことよ。」

「でもママ、僕がどんなに好きだって、おばあちゃんは死んじゃったんだから、もう僕の気持ちは届かないんだよ。僕の『大好き』って気持ちはどこへ行くの?」

「そうね、お星さまになるのよ。」

「お星さま?」

「うん、お星さま。届かなかった『大好き』の気持ちは、お星さまになるの。その気持ちが大きければ大きいほど、明るく輝くお星さまになるのよ。」

「じゃあ僕と同じ気持ちの人がたくさんいたんだね....でもきっと、僕のお星さまが一番輝くお星さまになると思う。おばあちゃんのこと、今も本当に大好きなんだ!」

 

本当にそんな気持ちが夜空の星になったら素敵ですが、残念ながら人の気持ちが星になることはありません。

けれども、人の想いというのは、それほどに尊いものです。

線香花火

夏はあっという間に過ぎ去っていきます。

 青い空と白い入道雲だったり、夕暮れだったり、時には雨上がりの虹だったり、夏は自然の美しさを存分に堪能させてくれます。

 また、自然だけでなく人も美しく輝かせてくれます。お祭りや花火、盆踊りなどの美しさは言うまでもありませんが、夏の日差しの下での輝く笑顔は、他の季節には決して見ることの出来ないもののひとつだと思います。

 たった一瞬だけれども、他の季節のどんな瞬間よりも、自然も人も魅力的にする。それが夏の素晴らしさです。

 個人的にはどこに行っても人が多くて、あまり得意な時期ではないのだけれど(笑)、それでも「夏が終わるのは寂しい」、そう強く思わせてくれるのが夏です。

 陽気さと切なさの季節、まるで線香花火。

 一瞬の煌めきとその後の余韻。

 今から来年の再会が待ち遠しくなります。

 

ありがとう、さようなら。

うぉーほる

ちょっと書かないうちに4ヶ月近くも時間が経ってしまうのだから、月日の流れというものは実に恐ろしいものです。

さてと、今日はアンディー・ウォーホル展に行って参りました。前々から好きで、見る機会があれば必ず見るようにしていたし、今回も外すわけにはいかないな、と。

別に専門家でもないし、あくまでも主観なんだけど、ウォーホルは繰り返される絵が面白いのです。マリリンにしても、毛沢東にしても、エルヴィスにしても繰り返される。キャンベル缶だって、はたまた電気椅子だって繰り返される。大量消費社会では、あらゆる物事が繰り返されます。繰り返される中で、それぞれの本質的なイメージが失なわれ、それ自体が本来持たない意味が生まれます。彼の繰り返される絵からは、それを感じられるのです。

僕はミリタリーものに目がないもので、先日もスウェーデン軍のバッグを衝動買いしてしまったんですが(笑)、このミリタリーバッグにも本来それ自体が持たない「強さ」や「逞しさ」といったイメージを感じられます。「この服が欲しいな」と思った時に、その服自体が欲しいのではなくて、その服を着ることで得られるイメージが欲しい、なんてことは考えてみるとよくあると思います。

実に奇妙で摩訶不思議な現代社会。そんな面白おかしいところを彼の作品から感じました。そんなことは考えたくもねーぜ!って方は洒落たデザイン展として、ウォーホルってどんな人だろうと思った方は入門として、あらゆる人のニーズに応える展覧会だったと思います。

もしよければぜひー!
(ステマみたいになってしまった...笑)

おつきさま

雲は多めだけど空気は澄んでいて、星がきれい。
夏なんて無かったみたいに、風もすっかり冷たくなった。
月明かりは優しいし、スカイツリーはきれいに輝いてる。

こんなに気持ち良い夜があるなら、人生も悪いもんじゃないなと思う。

なんて考えながらボーッとしてたら流れ星が見えたよ。
いいことありそう。明日からも頑張れそう。