ポケットには47円

心の中を書きます。

バカいぬ

 たまに通る近所の道によく吠える犬がいるんです。ちょっとでも気配がしようものなら、とにかく吠える。生垣の向こう側から道に向かって必死に吠えまくる。白いモフモフの体を振り乱しながら、とにかく大きな声で吠えまくる。

 僕は普通のトーンで話しかけられただけでもビクッとしちゃうくらいのビビりの中のビビリなので、その犬が大嫌いだったわけです。何しろ、吠えられると頭ではわかっていてもいざ吠えられるとビクッとしてしまい、心臓が縮みあがるような心持になるのですからね。僕はそんなことから、全身全霊の憎しみを込めてその犬を「バカいぬ」と呼んでいました。

 でも半年くらい前にその道を通ると、あんなに吠えまくっていたバカ犬が全く吠えず、ジャラジャラとバカ犬を繋ぐ鎖の音だけが虚しく鳴っているのです。どうしたんだと思い、生垣の向こうを見てみると、人が通るたびにあんなに暴れながら吠えまくっていたバカ犬が、元気がなさそうに自分の小屋の前にちょこんと座り、じっとこちらを見つめているのです。よくよく考えてみれば、僕が小さい頃から、バカ犬はそこで吠え続けていたわけです。歳を取って元気がなくなっても無理はありません。ただ、そのときの僕はまだ憎しみが勝っていたので「あれだけ吠えていたんだから元気が無くなるのも当然だろう」と思いました。

 そして先日、その道を通ると、鎖の音すらもしなくなっていました。生垣の向こうには座ってこちらを見るバカ犬もいません。よく見ると小屋もなくなっていました。ついにこの時が来たか、と思いました。あんなに憎かったバカ犬も、こうなってしまうと愛おしく思えてくるものです。しつこい鳴き声、モフモフの白い体、こちらを見つめる真っ黒でつぶらな瞳。長い間、お前にはビビらされてきたけれど、どれも今では良い思い出です。

ありがとう、バカ犬。さようなら、バカ犬。

僕と映画(La La Land観てきました)

こんにちは。

先日『ラ・ラ・ランド』を試写会で見てきました。普段は映画見たくらいじゃブログなんて更新しないんですが[ブログを更新する時間があるなら映画を見ます(笑)]、この作品は時間がたっても興奮冷めやらない、久々に自分の中でのスマッシュヒットです。その結果、こうして久々にブログを更新するに至ったわけです(笑)。

世間でも好評のようで、アカデミー賞にも多くの部門でノミネートを果たしています。ただし、女優志望の女性と売れないジャズピアニスト男性の恋の物語ということで、業界人なら感情移入せずにはいられない物語でしょうし、そのあたりがこの評価に影響している気はしますが(笑)。

とはいえ、この映画、純粋に面白いです。音楽はどれも良い曲がそろっていますし、多彩な映像は見る人を飽きさせない。とくに映画の中での色使いはとても印象的でした。そのあたりにも注意しながら見てみるとより一層物語を理解し、楽しむことができると思います。

そして、この映画において最も触れなければならないのは、この映画が全体に漂わせるクラシカルな雰囲気であると思います。公開前の作品なので詳しくは書きませんが、作品の中では様々なハリウッドの往年の名作へのオマージュや言及が多数登場します。それ以外にも作品の様々な要素から感じられる「古き良き」というメッセージは、全体にクラシカルな雰囲気を与え、2016年の作品でありながらもハリウッドの古き良き名作を観ているような気持ちにさせられます。言うなれば、この作品はハリウッド版"Make America great again"です。

本当に素晴らしい映画にこの言葉を引用するのは気が引ける部分もありますが、誰でも過去の輝いていた時代を愛おしく思うのは事実だと思います。現在でも豊かで華やかに見えるハリウッドでも、出来ることなら「古き良き」時代、名作が多く生まれた偉大な時代に回帰したい思いがあるんでしょう。

この映画のポスターに「夢を見ていた」というキャッチコピーがついていましたが、物語の登場人物が夢を追いかけているということはもちろん、そもそもこの作品自体がハリウッドの夢を詰めこんだ作品であり、見ている人たちにも夢を見せてくれる映画なんだと思います。

なんだかこうやって文字に起こしてしまうと夢もへったくれもないような気がしてきますが(笑)、ミュージカル映画があまり得意でない僕でも楽しめる、ミュージカル色の強すぎない作品に仕上がっているので、苦手な方にも本当にオススメです。

美しい映像や音楽を大迫力で楽しむため、劇場でぜひ。

youtu.be

すべての道はナポリに通ず。

 先日銀座へお出かけしたんですが、銀座でお昼を食べるならってことで数年前から目をつけていたお店に行ってみることにしたんです。

 こじんまりとしたお店だったので入れるかどうか不安だったのですが、お昼のピーク時間は過ぎていたので、着いてみるとお客さんは数組程度、これ幸いってことで入ってみたんです。ずっと行ってみたいと思っていたお店でしたから、何を食べようかなぁと迷ってしまったんですが、そこはイタリアンのお店で、数量限定ランチのラザニアがまだ残っているということで、迷わずラザニアを注文。ここのところすごくイタリアンが食べたくて、ラザニアが夢にまで出てきていたんです。秋だしポルチーニなんかも食べたかったけど、やっぱりラザニアが一番なのです。

 出てきたラザニアを食べてみるとアツアツで、とろけるチーズとソースがなんとも言えない美味しさだし、お店の雰囲気もお洒落でかわいいしで、「いいとこ選んだでしょ」なんて自分のチョイスを自画自賛していると、ふと気づいたんです。はて、自分の行きたい店はイタリアンだったのか、と。確かにお店の場所は間違いないんです。とても分かりやすいところにあるし、周囲に他のお店があるわけでもない。そこで僕がいつもつけている「行きたいお店メモ」を見てみたんです。すると「〇〇〇 スペイン料理店」って書いてあるわけですよ。おいおいおい、と(笑)。僕がいままさに食べているのはラザニア、正真正銘のイタリア料理です。こいつは参った。「そういえば、行きたかったあの店には美味しそうな肉料理があって、あれが食べたかったんだったな」とか何故に今更ってことがどんどん思い出されてきて、調べてみると、同じ場所にあったスペイン料理店は残念ながら少し前に閉店していたのです。

 いいお店選んだでしょなんて言ってしまった手前、「えへへ」とごまかすことしかできなかった僕は、苦し紛れに「ほら、あれだよ。すべての道はローマに続くってやつ」と言ってみたものの「ラザニアはナポリ名物だよ」と、あっけなく返されてしまうのでした。ぐぬぬ、でもそういう気の利いた返しは嫌いではない。僕の新たなスペイン料理店探しがこうして幕を開けましたとさ。

転ぶのも前のめりで

 「あのときこうしていれば」とか「こんなはずじゃなかった」と思うことは誰しもあるものだと思います。僕にもたくさんあります。むしろ人と比べても過去に対する執着は強いほうなので、暇があればそんなことを考えがちです(笑)。そんな僕が感じてきたことを自分への戒めとして今日はまとめておきます。何らかの形で読んでくださっている人のためにもなればと思います。

  • 過去は変わらない

 「いきなりそれかよ、そんなこと知ってる」と言われそうな気がしますが(笑)、個人的にはここが最大にして最強の課題なのです。山でいうならK2です。高さは世界二位ではありますが、その登頂の難しさたるや、エベレストを凌ぎます。数々の登山隊がその頂に立とうとアタックを試みましたが、ああ偉大なる自然は無情なり。その多くの試みは失敗に終わり、数多の命が奪われることとなりました。そんなことはどうでもいいですね。でもK2は大事なことを教えてくれます。失敗しても何度も試みることが大切だということです。過去が変えられないのは事実ですし、前を向くしかない。そういった中で再び山に登るチャンスがあるのだとすれば、登ってみるべきなのだと思います。K2では多くの登山者たちが命を失いましたが、その一方で何度もアタックを続け、ついに登頂を成功させた登山家たちもいます。失った過去は取り戻せませんが、未来ならば自分自身の手でつかみ取ることができます。

  • 人生の分岐点は地味

 こうだったら、ああだったらと思わずにはいられないような出来事は、自分自身にとってそれだけ大きな意味を持つ出来事であったということです。おそらく今の自分自身にとって、そこが大きな分岐点であったように感じられるでしょう。ただし、明らかに分岐点らしく人生の分岐点が存在しているということは稀で、大抵は分岐点に「見える」点は本当の分岐点ではなく、真の分岐点は別に存在しているものです。そして、それらは往々にして地味であり、静かであり、目立たないものです。明らかに目立って見える、ある一点に心は執着してしまいがちですが、その前にあったはずの見えないような小さな分岐点を探していくことは大切です。それがその経験を無駄にしないということにもつながりますし、なによりも前を向いたことで訪れるであろう新たな分岐点を見逃さないことにも繋がります。

  • もうどうでもいいや

 恐ろしいのは「もうどうでもいいや」です。僕はかなり長い間この病にかかり、意図せずに多くの人たちを傷つけたり、無下にしたりしてきました(本当にごめんなさい)。失敗を繰り返したり、そんな過去に対する執着を続けるうちに、人生そのものに対する執着をすっかり失ってしまうのです。どうせうまくいかない、だとか、自分なんかにはできないと思い込んで、もはや挑戦することを放棄してしまいます。こうなると、ここから再び立ち上がるのは本当に困難で、必要以上の労力を要します。また、時間の使い方という点でも無為な過ごし方が増え、大切なものを多く失ってしまいます。僕自身にとっては得たものもありましたが、失ったものと比べればほぼ0です。

 こうならないためには、こうだったら、ああだったらと過去に執着することを可能な限り避けて、現状で出来ることを続けていくということです。また、そうした状態に陥ってしまった時には、自分自身にとって少しだけ困難に感じられることすることが大切です。誰だってブランクがあれば、いきなり高い山に登るのは怖いものです。かつて目標だった大きな山ではなく、小さな山に登るも良し、近所のウォーキングから始めるも良し。執着すればするほど、過去にとらわれてしまいますが、比較的簡単なことから始めることで、前に向かってスムーズに動き出すことができるようになります。

  • まとめ

 偉そうにつらつらと書いてきましたが、結局のところ、前を向くということが人生において求められる重要な姿勢なんだと思います。ただ、頭ではわかっていても、うまく切り替えられないのが人間ってもので、どうしても過去についてあれこれ思いを巡らせてしまいがちです。それも当然といえば当然です。なぜならば、今の自分自身にとって確かなことは過去だけで、未来は不確かだからです。新しく知り合った人と、急に未来のビジョンなんて語り合ったりしないでしょう(笑)。お互いを深く知ろうと思うならば、お互いの過去について話をするはずです。それだけ人間は過去を重視しているということ。そりゃ過去のことばっかり考えちゃうわけだ(笑)。とはいえ、過去ばかり考えていたのではいけません。時間は前にしか進まないですし、何より未来はいずれ自分自身の過去となっていくのです。

 長い人生、嫌になることもあります。立ち止まりたくなることもあります。そんな時には無理に進まなくてもいいのだと思います。嵐の中、無理に山に登ることはありません。時には荒天をぐっと耐え忍ばなければならないこともある。けれどもそこでの長居は厳禁。山の天気は変わりやすいものです。一瞬の晴れ間も逃してはいけません。そうして登りつめた頂から見る景色は、何物にも勝るはずです。過ぎた道は過ぎた道。大切なのは自分を高くから見下ろす山頂、ただその一点なのです。

こいつはヘビーだ

 巷ではバック・トゥ・ザ・フューチャーで描かれた未来が...!なんて騒がれていましたね(まるで他人事ですが、僕も映画の大ファンなので例外なく騒いでいました)。幼い頃はどんな未来が待っているんだろうと、まだ見ぬ2015年という未来に心を躍らせながら映画を観たものですが、現実に2015年になってしまえばなんてことはない。

 1985年と形は変わったものの、2015年でも基本的に人間のやってることは変わりません。僕たちは時代の変遷とともに変化しているようで、その根源の部分では何も変わっていないんだと思います。

 よくよく考えてみれば、映画の中でもそうでした。マーティたちは2015年において、1985年とは似ても似つかないような世界を目の当たりにしたわけですが、結局のところ2015年で問題になっているのは息子の交友関係がらみの問題であって、そこのところは1985年でも変わらない。それは映画で描かれた他の時代(1955年、1885年)でも同じわけです。

 人は離れたものを見るとき、それがまるで宙に浮いて、自分の立っている場所とは全く関係のないもののように感じてしまいがちです。けれども、どんな未来も過去も僕たちの立っている道の前後にあるものなのです。幼い頃にあんなに夢見た2015年も、僕が初めて映画を観た1990年代も、映画の作られた1985年も、映画の中で描かれたどんな時代でも、状況こそ違えど変わらない日常があるんだと思います。

 要するに夢のような時代など無いということです。それぞれの時代で出来ることをすること、それ以外に僕たちにできることはないんだろうと思います。

 それにしても、終焉に向かっていたとはいえ、西と東とでオリンピックをボイコットしあってたようなガチガチの冷戦時代には、1955年のベトナム戦争前の穏やかだった時代に戻ることで現実に横たわる暗い未来の予感から目を背け、いよいよゴルバチョフの登場で冷戦にも終わりが見え始めると、テクノロジーの発達した明るい未来が映画になるっていいですね。わかりやすくて。

 ちなみに僕が1989年(Part2の公開年)の人々に一言いえるのであれば、「ご存じのとおり冷戦は終わったけど、2015年になった今でもアメリカとロシアは互いにけん制しあっているよ」ということを伝えたいです。やっぱり夢のような未来なんてなくて、あるのは僕たちの行いの結果としての夢のない未来ですね。こいつはヘビーだ(笑)

豹のすすめ

近頃、わたくしの中で「豹ブーム」が来ております。

豹のあのスマートさからにじみ出る凶暴さと、時折見せるネコ科らしい愛くるしさがたまらないのです。そこで今日は豹の登場する作品のお話です。

Kilimanjaro is a snow-covered mountain 19,710 feet high, and is said to be the highest mountain in Africa. Its western summit is called the Masai "Ngaje Ngai," the House of God. Close to the western summit there is the dried and frozen carcass of a leopard. No one has explained what the leopard was seeking at that altitude.

(雪に覆われたキリマンジャロの西の頂上は神の家と呼ばれていて、そしてその頂上付近には豹の凍った死体がある。そんなところでその豹が何をしてたのか誰もわからない。)

という書き出しで始まる『キリマンジャロの雪』は、1936年に発表された有名なアーネスト・ヘミングウェイの短編。この豹が何をしていたのか、作中で示されることはありません。また作品冒頭の豹が、この作品本編の内容とどう結びついていくのかも具体的には示されず、読者の想像に任されているのです。

 久々に読んでみたら、とっても面白かった。死が近づく主人公の周辺にハゲタカが集まる描写なんかは、本来は目には見えない死の存在が、死神のように具現化されていて実に生々しく、自然の中での人間の無力さを感じます。他にもいろいろ話したいことはあるけれど、ネタバレするのは嫌なので、控えめに。豹の登場するのは本当に少しなのだけれども、それでも作品全体に影響を与えています。ヒョウって素敵。

 

本は嫌だ、というお方は映画を。『LIFE!』(2013)です。

ベン・スティラーが監督と主演を務めた映画で、原作は1939年に発表されたジェームズ・サーバーの短編小説'The Secret Life of Walter Mitty'(邦題『虹をつかむ男』)です。奇しくもキリマンジャロの雪と同時代です。あぁロストジェネレーション万歳。まぁ、それはいいとして(笑) この作品でも豹が登場するのは、ほんの少しですが、大きなメッセージが込められているように感じました。映画全体もテンポよく、爽快感のある出来になっているので、是非。ヒョウって素敵。

 

豹の登場する作品とかいって意気込んだのはいいけれど、大して作品も見つからなかったので、今日はここら辺で(笑)。とはいえ、この二つの作品は本当にイチオシなので、豹が好きな人も、そうじゃない人も是非楽しんでもらえればと思います。

 

 

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪―ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪―ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)

 

 

 

虚構のはざまで実存的価値をさけぶ

ぼくたちはどこからきて、どこへむかうのか。

多少の山や谷はありながらも、毎日が何事もなく過ぎる。

ふと自分の歩いてきた道を振り返ると、そこには何もない。

あぁ、生きているだけじゃダメなんだな、という実感。

「みんなオンリーワンだよ」とか、そういう甘い言葉に惑わされて、そして自分自身もそういう言葉に甘えながら生きてきた。

けれど、オンリーワンなんて、なんの価値もない。

きっと人間の存在それ自体には大した価値なんかないんだろう。

本当に価値を持ち得るのは、存在それ自体ではなくて、行動なんだと思う。

結局自分自身の為したことだけが、自分自身に価値を持たせ得るのだ(ただし全ての行動が価値を持たせるわけではない)。

もう「オンリーワン」だなんて言葉に甘えているわけにはいかない。

本当に価値のある何かを為さねば。

 

次回は河童の生態ときゅうりの浅漬けに関してお話しします。